なぜ川や水はタイの文化の中心であるのか(2)

水は個人的なタイのコミュニティーでもよく使われます。結婚式では、新郎と新婦の腕に水をかけ、結びつきを強くするという願いを込めます。もちろん、世界中のカップルでもタイで挙式を挙げる場合には、伝統的なタイのお祝いとして、この儀式を行います。しかし、タイは様々な方法の結婚式を用意しています。本当に水が好きな人たちは、年に1回、トランの海で水中結婚式を行うこともできます。他にもタニ州ウドーンでは、赤い蓮の海で結婚式を挙げることができます。これは11月から2月末までがオススメです。もっと思い出深い結婚式にしたいなら、タイの最高峰での結婚式や、タイの象徴である象の上での結婚式はどうでしょう?この国でならできます。

もちろん、タイの水路と川は王国の景色や歴史を形作ってきました。バンコクを流れるチャオプラヤ川はタイの歴史の中でも、最も重要な川です。行政と宗教の中心となったアユタヤ王朝(1351-1767)、トンブリー王朝(1767-1782)、それから1782年から現在まで続くバンコクの3つの中心地は、川に沿って建てられたのです。
タイが世界にその扉を開いた時、チャオプラヤ川は王国の入り口となりました。貿易商人や使節は地域の例に従い、川沿いに家を建てました。今でも、大使館や5つ星ホテル、貿易会社などをチャオプラヤ川沿いに見ることができます。バンコクは運河のネットワークを発達させ、地域の住人はボートを家にしました。
1840年代には、90%の住人が運河に住んでいました。シアター、お店、レストランはボートで営業しており、人々は小さなボートで移動します。このバンコクの水上生活は、東のベネチアと呼ばれています。

川は新しい貿易と産業で動揺しています。最も有名な川沿いのショッピング通りであるアジアティーク・ザ・リバーフロントは、ウォーターフロント施設を改修しました。周辺は食事、雰囲気を楽しむ地元の人だけではなく観光客で溢れています。ヨッピマン・リバーウォークは、シャムの栄光を残した川沿いのモールで、コロニアル様式のつくりになっています。川を感じるには完璧な場所です。チャオプラヤは他にも魅力があります。ワットポーの近くにある、静かで小さなナカラピロム公園はリラックスするにはとっておきの場所で、ローイクラトンの開催地でもあります。
以上のことから、チャオプラヤは国の川として、タイの文化の象徴である国の祭りの開催地となっています。50以上の金色の船(御座船)が2200人のタイ王国海軍の軍人によって堂々と川を下ります。このセレモニーは、オークパンサーと呼ばれる仏教の受難節の終わりに、僧侶に新しいローブを運ぶという特別なイベントです。また王族のメンバーの移動をするためのものです。このような繊細な御座船は特別な時にしか見ることができないので、バンコクで見ることができたあなたはとてもラッキーです。王室御座船博物館で御座船を見るのもいいでしょう。タイの職人の素晴らしい技術を目にすることができます。オリジナルの御座船はラーマ1世によって注文され、タイの神話を元に作られました。

バンコクを離れても、水をベースとしたコミュニティーは見られます。タイの有名な水上市場は人気があり、地元の人々との交流の場となっています。伝統的な料理がどのように作られるのかを見ることができ、雰囲気を楽しむことができます。サムットソンクラーム県のアムパワーのような多くの水上市場では、地域の芸術家を支援し、作品をお土産として売っています。
タイの水路は王様から庶民まで、すべての人々にとって重要です。川は国の歴史と文化や伝統の肥やしとなっています。観光客は、本物のタイを見たいなら、国の精神でもある水に触れるべきです。
これはタイの水路の話ですが、他にも何千という多くの物語があります。世界中からの観光客は、タイで様々な魅力に触れるチャンスがあるのです。

タイで就職する際に必要な語学力はどの程度か?

今、私が働いている会社では日本人のスタッフを募集しています。今までは求人情報サイトに掲載していて、それなりに効果があったのですが、最近は効果が薄くなってきているので、今回からは人材紹介会社を利用することになりました。

そこで人材紹介会社の担当者に何度も同じような質問をされたので、タイで就職したいと考える人はこういったことを考えているのかと勉強になりました。今まで焼き直しのような求人情報サイトに掲載していた募集内容についても、教えてもらったように変更しました。

それは、語学力に関してのことなのですが、タイで就職する際に語学力を気にされているんだということがわかりました。

人材紹介会社の担当者より「御社で働くには、どれぐらいの語学力が必要ですか?」「英語力は日常会話以上でしょうか?」「タイ語は話せた方が良いですか?」など、こういった質問が必ずありました。

弊社の求人募集内容のことから話しますと、英語レベルは必要ありません。
他社は人材紹介会社の方からの話によると日常会話レベル以上を求められるようです。

私が営業で訪問をさせていただく日系企業様の多くは社内コミュニケーションが英語になっていることが多いです。その理由は、管理職レベルの話によるとタイ人において日本語が話せる人よりも英語が話せる人が多く優秀な人が集まって来やすいということが挙げられます。そういった環境なので日本人も英語で話せることが望ましいようです。
ただ私の経験上、タイ人とのコミュニケーションが英語であっても、指示やメールくらいでしか話すことがないので流暢に話せなくても、中学生レベルの英語を会話にすることが出来れば大丈夫だという認識があります。

ただ事務職や管理職になると、タイ人とのコミュニケーションが増えるため、日常会話レベルくらいは必要になるかと思います。私のような営業であれば、あまり必要ではないと思います。

タイで就職したい人の参考になればと思います。

なぜ川や水はタイの文化の中心であるのか(1)

タイという国は、多くの河畔沿いに成長してきました。何世紀もの間、豊富なモンスーンの雨水によって王国の水路を確保し、人々に主食である米や魚を供給してきました。

そこで少し不思議に思うのは、様々な地域の式典や伝統的行事は水を使って行われているということです。

1年間で最も重要な行事は水でお祝いされます。その行事とは、タイの新年のお祝いある、ソンクーランです。1年で最も熱い3日間で、王国は世界で最も大きな水の祭典を開催します。全ての町や村は若者と大人の水の戦いを主催し、一緒に涼んだりします。観光客はこの雰囲気が大好きですが、これは家族のイベントです。家庭や全国の寺院では、ブッダの入浴の儀式として、人々が神聖な水を振りまくために集まります。タイの地方の文化では、恵みの雨を祈るための儀式なのです。
また、これは家族の目上の人に対して、敬意を表す機会でもあります。ソンクーランでは大人たちが、ディンソーポンと呼ばれる化粧用の白粉を、若者の顔や首に塗ります。これは、悪魔を寄せ付けないようにするための昔からの儀式であり、さらに肌を日光から守り、シミを防ぐ効果もあるのです。この方法は世代を超えて伝わっている方法なのです。

1年の終わりが近づくと、ローイクラトンが行われます。陰暦12月の満月の下で開催され、水の神に1年の感謝を伝えるお祭りです。バナナの葉で作られ、香料とランがのった灯篭を王国の水路に流します。花のような灯篭は、作った人の愛、幸運、成功への願いを運ぶと言われています。

ローイクラトンは様々な方法で祝われます。ターク県の南部では、このお祭りはクラトンサイと呼ばれ、クラトンはココナッツの殻で作られます。ココナッツの殻はタイの人気ビーチであるコサムイ、コパンガン、プーケット、コチャンなどで手に入れることができます。ココナッツの殻はワックスでいっぱいにされ、ターク県の主要な支流であるピン川に流されます。チェンマイの北部では、ローイクラトンはイーペンと呼ばれ、火のついたランタンが流されます。運河は明かりでいっぱいになります。

新しい仏教寺院はタイ文化の中心になるか

オレンジ色のローブに身を包んだ僧侶が、タイ仏教センターのホールで、花のアレンジメントに向かい、横1列に座っていました。
訪問者はボウルに入った水を手にし、ゆっくりと僧侶の間を移動します。彼らは手のひらで水をすくい、下の花に水を滴らせます。
タイでは、水の儀式は僧侶の加護を受ける象徴となっています。タイの新年のお祝いの中心的なイベントとなっており、最初のイベントは新しい寺院、セントルイスパークの近くにあった旧ルーテル教会で執り行われました。
寺院はミネソタワットタイとして知られているタイ仏教センターをアップグレードしたものです。メンバーは、この建物が仏教徒のためだけのものではなく、タイの文化を発信する場所になってほしいと願っています。
「私たちはこの場所をタイを学ぶ場にしたいのです。」と、このセンターのプログラムマネージャーのYin Srichoochatさんは言いました。「タイの料理、タイの踊り、タイの言葉、タイの楽器などです。他にこういったことを学べる場所がないですから。」
この地域は宗教的な施設だけを集めたわけではありません。ベテル、ユダヤ教会、ベニルド=セント・マーがレッツスクールもあります。異なる宗教間の関係を構築するにはいい場所になっています。
「これは、他の宗教の代表者たちと関係を築くのにとても良い例となり、お互いに興味を持つチャンスにもなります。」と、ワット・タイのコーディネーター、トレイシー・シュルツさんは言います。

ミネソタ・ワット・タイは2003年に設立され、メトロエリアに創設されたタイの3大仏教セクトの走りですと共同創設者のSutape Ple-Plakonさんは言いました。最初の寺院はベッカーの家でしたが、2006年にエルク・リバーに移転しました。現在では20~30人のメンバーがいますが、文化的なイベントなどには100人以上の地域のモン族が出席することもあります。
エルク・リバーセンターは僧侶が詠唱したり瞑想したりするために人里離れたところにあります。
ミネアポリスから最低でも45分かかり、多くの人にとっては運転するのに遠すぎてしまい、また、大きなイベントを主催するにはスペースが限られていたとSrichoochatさんは言います。
ミネアポリスでアメイジング・タイランドというレストランを経営するDee Noreeさんは、昨年ワット・タイの代表者に選ばれました。1月、彼は2年以上使われていなかった旧ルーテル教会を購入したのです。
数ヶ月以内にワット・タイは古い教会を寺院に作りかえました。僧侶とボランティアの人々が電気や配管を直し、壊れた窓を入れ替え、壁の落書きを塗り替えました。大きな黄金のブッダと他の小さなブッダは寺院の瞑想スペースに設置されました。
リノベーションの多くは僧侶たちによって行われ、そのうちの3人がワット・タイに配属されました。オレンジ色のビーニー帽にハンティングジャケットを着て、朝と夜の詠唱の合間に掃除をしてきました。
この新しい施設は、バーチウッドの人々に歓迎されました。バーチウッド近隣協会のマーガレット・ログ共同代表は、住人たちは教会の建物を存続させることができ、喜んでいると話しました。
「この建物が残るということに、とても感謝しています。」とログ代表は言います。「それだけではなく、私たちに文化の多様性をもたらしてくれるのですから。」。この感想は、ログ代表とともにタイのニューイヤーフェスティバルに参加したセントルイスパークのジェイク・スパーノ市長も同じようです。
「1つの宗教コミュニティーが出て行き、新たな宗教コミュニティーが入ってきました。」と彼は言います。「それはアイデンティティ、参拝所という特徴を残しています。」
タイの新年を祝う1週間前、ベテルのラビ・アレクサンダー・デービスさんは寺院を訪問し、イベント時にユダヤ教会の駐車場を開放したいと申し出ました。
デービスさんは仏教徒の隣人たちと仲良くなりたいと願っており、集会のメンバーにも彼らの伝統を学んでほしいと思っています。
「文化的交流が可能となり、教育の機会や資源分配も進めて行きたいです。」と彼は言います。「まずは相互理解を進めて行きたいです。」

寺院は2018年のオープンに向けて、やるべきことはまだまだあります。薄くなった青い外壁は少しずつ削り、少し補強が必要です。
ニューイヤーフェスティバルで、寺院は日曜日には人で溢れました。参加者のほとんどはアジア系で、他のバックグラウンドを持つ方々も参加してくれました。
「私たちは全ての人を招待します。」とPle-Plakonさんは言います。「あなたが仏教について学びたいと思ったり、敬意を表してくれるのなら、いつでも歓迎します。」
トロピカルシャツやドレスを着て、参加者はパレードし、伝統的なダンスを披露しました。出店ではパパイヤサラダ、タピオカジュース、焼き鳥などが提供されました。
現在は12人以上の僧侶が所属しており、Phraathikan Prapatphan Ritsakunwongさんは12月にタイからミネソタにやって来ました。
「私はとても楽しみにしています。エルク・リバーの時には、そこまで多くの人は来てくれませんでしたから。」と、彼はタイにいるときに話していました。
センターは7月にさらに2人の僧侶を受け入れます。シュルツさんは彼らのための家を今年中に作る予定ですと話しました。
アメイジング・タイランドのシュルツさんは近隣の人たちの歓迎ぶりに喜び、驚いたと言います。
「人々は他の文化を知る方法を探していて、異文化に対してオープンで受け入れてくれるということを表明してくれました。」と彼女は言いました。「そして、私たちはとてもいいタイミングでここに来られたと思っています。」

文化と伝統、パタヤのソンクーラン

文化、伝統、宗教が融合したソンクーランがパタヤ周辺でおわりました。

水の大切さについて、保守的なリーダーたちが、ソンクラーンの価値を説いています。

Anan Charoenchasri市長とTongchai Wattraimitwitthayaram Worawihanは、4月12日から20日にかけて「ウェット&クールタイウェイ」を開催しました。また、タイの新年のお祭りを中央道路とビーチの交差点で4月13日に開催しました。
教育、宗教、文化の保護と教育のためのスポーツの責任者であるNopsitcha Na Nakhonは今年のパタヤは伝統とソンクーランの文化遺産の保護を目的として行われたと話しました。観光客にタイの花の服を着てもらい、露出を抑え、白い粉を使わずに水だけで参加してもらったのです。

「白い粉」の正体は? – 阪急交通社
ソンクラーンでは、水をかけられる他に、なぜか白い粉を水で溶いたものを「サワディーピーマイカ―(ハッピーニューイヤー)」と声をかけられながら顔などに塗られます。この白い粉は、昔日焼け止めに使われていた「ディンソーポン」というハーバルプロダクツ。

北と南に2ブロック進んだ通りでは、誰もこのメッセージを受け取っておらず、例年通りタイ人も観光客も白い粉まみれになり、冷たい水と高圧水鉄砲で楽しんでいました。
しかし、市のリーダーたちは、この騒々しくなってしまった祭りを、昔ながらの方法で執り行うために最大限の努力をしています。ブッダの像に神聖な水をかけて、サンクチュアリー・オブ・トゥルースの遺産を並べ、布製でパタヤのシンボルが描かれていて僧侶によって清められたパーヤン(お守り)を配りました。
何百人ものタイ人がパーヤン(お守り)をもらうために列を作り、例年のソンクーランよりもひどい渋滞となりました。

Anan氏の文化的改革運動は、ドラマーやダンスを見ることもできました。観光客は一緒に踊り、タイ人はまたパーヤン(お守り)をもらうために列を作りました。市のリーダーたちはこの文化的なイベントを4月20日まで毎日、ウォーキングストリートで行いました。
タイの元日の活動は、パタヤ中で早い時間から始まり、仏教徒は各地域にある9つの主要な寺院に集まり、成功とこの先の繁栄を祈願しました。
信者は早朝のフードサービスにも参加し、ブッダ像を水で濡らしました。また僧侶にお布施を渡し、鳥と魚を解放しました。
家族全員が参加するソンクラーンは皆にとって何かを一緒に行う素晴らしい時間であり、この先1年家族に幸運をもたらしてくれると信じています。
チャイモンコン寺院で、Abbot Panyarattanapornは成功祈願の主宰を務め、神聖な水の儀式に参加する30人の僧侶を率いました。

多くの仏教徒とその家族は寺院に滞在し、僧侶に朝食を恵みました。そして人々は先祖の名前を書き、亡くなった親族の鎮魂の儀式が行われました。
サッタヒープ郡では航空沿岸防衛隊のEakaraj Phomlumpak海軍少佐とその妻のSomjitさんが海兵隊に対し、10人の僧侶にフードサービスを行いました。
彼らは神聖な水をブッダの像と高齢者の手にかけ、84,000の淡水魚をACDC貯水池に放しました。

Pakarathorn Tienchai議員はチョンブリ市役所でのソンクーランの行事を企画しました。
彼は、「お祭りはいつも地方の経済、社会、スポーツ、エンターテイメント部門において良い影響があり、地方の伝統や文化を広めるいい機会になる」と言いました。

4月11日から19日にかけて行われるお祭りは、1932年に始まり、観光客を呼び込むことで地方の伝統の維持継承をしているとPakarathornさんは言いました。イベントの収入は慈善基金に寄付されます。
今年のイベントは骨董の展示、タイの芸術と文化の展示、パレード、ミス・コンテスト、地元の人たちの手作りの雑貨の販売、献血コーナー、ゲームなどがありました。
4月13日のパレードには12のいかだと車でブッダを運び、人々は神聖な水を注ぐことができました。それぞれの地区の高齢者が2人パレードに参加し、観客たちは彼らの手に水を注ぎ、新年の恩恵を祈りました。
いかだは評価の対象となり、シーラーチャー郡が1位となりました。HRHマハ・チャクリ・シンリトーン王女のトロフィーと現金50,000バーツを受け取りました。
2位はパナットニコム郡で、トロフィーと30,000バーツを受け取り、3位はバーンブン郡で20,000バーツを受け取りました。

農村部の変化(若い労働者は農村部を離れ都会で就職する)

農村部の高齢者は、若い労働者は農村部を離れ都会で就職するのではないかと危惧しています。
「私たちが死ねば、若い世代が土地を売り、どこかへ移動して行くでしょう。私たちは今自分たちがやっていることに誇りを持っていますし、幸せですが、私たちの後は誰がやっていくのでしょうか?」と、元小学校教師のKhamphan Waenkhwaenは言いました。
「どこへ行っても、都市化とテクノロジーがあとを追ってきます。以前は自然と共存し、戦わなければなりませんでした。今、人々はそこまで強くありません。」と別の村のリーダーは語ります。

最初の変化は1970年代に始まり、労働力を削減するための道具を使うため電気が導入され、物々交換に代わってお金が使われるようになりました。結果、相互依存を弱める消費者運動となり、個人での活動を望む人が多くなりました。高齢者の妥協と和解により論争は一度はおさまりましたが、土地、水道、相続についての対立は続いています。
宗教や精神も影響しています。村人は未だにバラモンに意見を伺い、神のお告げを伝えるシャーマンと3人の占い師が、何かを決める際の手引きをしてきたました。しかし現在は干ばつや疫病などのカタストロフィーは日頃の行いによるものであると信じている人はもはやいません。反社会的行動を制限する意味はなくなったとクラウスナーは言います。

仏教の僧侶は少なく、地域で最も高学歴とされていた頃よりも影響力は少なくなってきています。クラウスナーがかつて訪れた修道院には、20人の僧侶と6人の修道士がいました。
今では、たった3人の僧侶しかおらず、修道士は1人もいません。多くの若者が、雨季の3ヶ月間だけ、通過儀礼として修道士の訓練をします。(現在は、1週間が標準です。)
ルアン・プ・ウォンは農村部に生まれ、20歳の時から僧侶として仕えています。農業アドバイザー、教師、裁判官、人工水路、道路、電気のプロモーター、政府と村人の仲裁人などの多くの役割をになってきました。しかし、今では官庁職員や開発の専門家の着任により、彼の役割は礼拝式や倫理を説くことに限られてしまいました。
「私たちは落とし穴に落ちてしまったのです。」と彼は嘆き、村人の何人かは神聖な日でもギャンブルをしたり、酒を飲んだりという、過去には考えられない事態になっていると説明しました。「もし私たちが禁酒を説けば、彼らは寺院に来なくなるでしょう。」と彼は言いました。

農場に隣接した森で食べる昼食は、「ほっこりとして良かった」と村の高齢者グループと市の職員は話しました。しかし、政治家は「それはゴミのようだ」と言いすてました。
農村部が政治家に対する嫌悪は、2014年5月以来、高まっています。その一撃は、タイの近頃の政治的動乱のサイクルを終わらせましたが、電気の復旧を求める声に煽られてきました。

農村部の高齢者は意外にも焦っていません。
「バンコクの政府が来ましたが、私たちが求めていることは何も起きませんでした。いくつかの国の政策はいいですが、時に地方の人々にとっては不利なものもあります。」と、学校長のThatsanaiは言いました。例えば権威者たちが地下の水道システムを開発したいと思っていますが、それは優先事項ではありません。かんがい施設がまだ完成していないのですから、と彼は言います。学校のカリキュラムは、地方の需要を知らないバンコクの官庁職員によって考案されているといいます。
農村部と首都圏との経済格差はまだ大きいです。最新のデータによると、2013年のバンコクにおける1人あたりの国内総生産額は15,200ドルですが、北東部では2,400ドルだといわれています。

戦争を引きずっているタイの日本に対する感情

今年の初めに、日本に対する世論のジェネレーションギャップを埋めるため、2つのイベントがタイで開催されました。
タイ国日本人会は3月中旬に、タイ西部のカーンチャナブリーで慰霊祭を執り行いました。それは、「泰緬鉄道を作る上で亡くなった方の鎮魂と、世界の平和」のために行われました。
50人ほどが参加し、式典は、第二次世界大戦中に過酷な環境下で強制的に働き、栄養失調やコレラやマラリアなどの病気で亡くなっていった人々のために1944年に日本軍によって建てられた記念碑の前で行われました。

戦後記念碑は放置されていましたが、バンコクを本拠地にしている在タイ日本人会が土地を買い、1963年から年に1回、戦犯やアジア人労働者の慰霊祭を行っています。
この記念碑を知っている人は少ないですが、「私たちにはこれを保存する責任があります。」と、会長の大橋寅次郎さん(76)は言います。大橋さんは1965年に日本の自動車製造業者の代表としてタイに渡りました。

タイは西洋の植民地支配を避け、第二次世界大戦中は、戦争末期に連合国に味方するまでは日本と同盟を結んでいました。
日本が負けた時、「多くのタイ人が喜びました。」と、84歳の写真家 瀬戸正夫さんは言いました。瀬戸さんは日本人の父とタイ人の母のもとに生まれ、バンコクで育ちました。
戦時中、日本人兵士はケチで傲慢だったため、「多くのタイ人は占領下にいるように感じていました。」
反日感情は、1942年に仏教の僧侶が連合国軍の捕虜にタバコを渡し、怒った日本人兵士がその僧侶の顔を殴ったことから高まりました。

記念碑の横の戦争博物館を運営しているArun Chansiri(78)は「日本人が嫌いです。」と言いました。

70歳のPhichien Koosmithは、味の素のタイ支部のアドバイザーです。彼が入社したのは1969年で、当初はアメリカ留学までの期間だけ働くつもりでした。日本の調味料メーカーに雇われることについて、彼の先生は「もっといい仕事を探しなさい。」と言ったそうです。

1974年、当時の首相である田中角栄(1918-1993)はタイを訪れ、強烈な反日デモと日本製品の不買運動を目にしました。人々は、過去の軍事的侵略ではなく、「経済的侵略」を非難していました。

チュラロンコン大学のチャイワット・カムチュー教授(64)は、福田赳夫首相(1905-1995)によって発行された1977年の福田ドクトリンが日本とタイの関係の分岐点になったと言います。ドクトリンでタイと日本は同等の関係となり、東南アジア諸国との理解を深めていきました。

日本のODAがタイのインフラ整備に貢献したことから、シハサック・プアンゲッゲオ駐日タイ大使は、タイの発展に向けた日本への信用が高まったとしています。

日本企業にとって、タイは重要な製造業と物流の拠点になっています。バンコク日本人商工会議所は1985年の会員数が394であったのに対し、2014年には1,546にまで増えました。
バンコク日本人学校は、海外の日本人学校としては最大で3000人の生徒が在籍しています。在タイ日本人は1985年に7,852人であったのに対し、現在は60,000人ほどになっています。
日本の文化の一部である漫画とアニメは1970年代に浸透し始め、タイの30代から50代は漫画とアニメとともに育ってきました。

「タイガーマスクや他の漫画を通して、日本のことを知りました。」とSihasakさん(57)は言います。
タムくんとして知られている漫画家のウィスット・ポンニミットさん(38)は「食習慣などの日本人の精神は、ドラえもんなどの漫画を通して、タイ人に受け入れられ、日本人との共通点を見つけることができます。」と話します。
日本人とタイ人の結びつきは2011年の大災害後も強くなっています。2011年、日本では地震と津波、タイでは大洪水がありました。
観光・スポーツ省のコプカーン・ワタナワランクーン大臣は洪水後も日本企業がタイに残り続けていることに感謝しています。
東日本大震災の被害者を支援するための曲を作った音楽プロデューサー、ボイド・コシヤボンさん(47)は「タイ人のうち戦後に育った世代は、日本に対して悪いイメージが一切ないです。」と話しました。

在バンコク日本人は冗談で、首都のことを「東京都バンコク区」と呼んでいます。またスクムウィット通りには約2,000軒の日本レストランがあります。
毎日のように日本人に対してタイの観光スポットや食事、文化を紹介するイベントが開催されています。
2013年から、日本政府はタイ人の短期の旅行者に対して、ビザなし訪問を許可しました。これにより、2014年には660,000人のタイ人が日本を訪れ、その数は直近3年間の訪問者数の5倍を記録しました。

2006年以降、日本を紹介するテレビ番組のホスト役をつとめているカンヤラット・”ティック”・ジララッチャキットさん(38)は、「中国や韓国は一度行けば満足ですが、多くのタイ人は人々が礼儀正しく温かい日本を何度も訪れています。」と言いました。
一部の専門家はタイ人は賢く、自己中心的だと考えています。写真家の瀬戸さんは「タイ人は日本の経済利益を賞賛しています。」と言います。
大橋会長も同調しましたが、「日本人の正直さは感謝され、兄弟姉妹として共存していくことを期待しています。タイで生活できることへの感謝を忘れてはいけないのです。」と語りました。

過去50年のタイの社会的変化を反映している村

冒険好きな若い人類学者ウィリアム・クラウスナーが1955年に1年間ノンコン村に滞在したとき、住人は時計、ランプ、冷蔵庫を持っておらず、たった1台のラジオがあるだけでした。多くの子供たちが4年間の教育を受け、大人はコメ農家として働き、事実上無学であるため、世界へ出て行く人は少なかったです。このタイ北東部にある村は結束、内向的な地方のコミュニティの象徴となっていました。

60年ほど経った今日、アメリカ人の研究者が年単位の滞在を開始し、各家庭にはピックアップトラックないしはバイクがあり、携帯電話はいたるところにあります。(携帯電話は「祖母世代だけが持っていない」と村人がいうほどに普及しています。)
子供達は3つのビデオパーラーで遊んでいます。さらに村にはコンビニがあり、ATMやピザの宅配サービスもあります。大半の地域のは若い労働世代は、何人かは大卒で、農家にはならずバンコクや他の都市で働いています。

訪問者との会話の中で、村人は国の政治的な発展にはリアルタイムでメディアを通して知ることができると話します。
「過去の影はまだありますが、街には新しい娯楽があります。村はネガティブな面もポジティブな面も伴いながら準都市コミュニティへと変化しています。」とクラウスナーは言いました。彼は村の女性と結婚し、ライターとタイ文化のエキスパートとして顕著なキャリアを形成しました。また、NPOの役員も務めています。

ノンコンの劇的な変化は「貯水池村」としてイーサンや北東などタイにとって社会的かつ政治的な発展を反映しています。タイの貧困層も残っている中で、後退しているという人もいます。変化はバンコクとの差をより深くしていっているようにも見えます。同時に、このような変化は甘やかされた首都に対する反感も爆発させ、エリートの流動性、経済の向上心、政治への意識が農民の間で高まっています。

複雑な都市と地方間の関係では、多くの人がホワイトカラーとして働き、銀行員や看護師などの専門的な分野で活躍しているにもかかわらず、多くのバンコクの人々が、北東部の村出身の人たちのことを無学だと思っていて、内向的で、「水牛」とけなしているのです。
前首相のタクシン・チナワットを支持する通称「赤シャツ」運動は、広く北東部で始まり、バンコクの政界の黒幕に反対する怒りや不満を反映させました。さらに2010年には抗議者たちは首都の一部を占拠し、軍によって鎮圧されました。
北東部の多くの人々は、クラウスナーが知っているような穏やかな人々ではなく、権力に従い、自分たちの権利を犠牲にするつもりはなく、家族、親しい人々、コミュニティーに対する野心があります。

「彼らがコメ農家だった頃、人々はお互いに助け合っていました。お互いがお互いを頼りにしていましたが、機械を使うようになってからはそのような光景は見られなくなりました。現在、生きるために共に働くという感覚はもうないのです。」と小学校校長のThatsanai Chainaenは言いました。昔は、料理を作り、他人と分け合ったといいます。「今はセブンイレブンに行けば買えるのです。」と彼は言いました。
草木が生い茂る村の寺院やワットで寝転びながら、長年にわたってコミュニティーの発展に寄与してきた80歳のルアン・プ・ウォン大修道院長は、「貧乏でありながらも、私たちが大切にしてきたのは、共通の精神です。進歩は遅かったですが、強い絆で結ばれていました。」
別の村のリーダーは、日経アジアンのインタビューの中で、懐かしさをあらわにしましたが、理想的な過去、明るい現在や未来にはすがりついていないようです。
彼らは過去の生活を思い出していました。厳しい貧困、骨の折れる仕事、不十分な教育、家族計画の欠如、栄養不足、短い寿命と死に至る病などです。人が死ぬところというイメージから、人々は病院に行くのを怖がっていました。
しかし、若者の都市部への流出や訴訟、世代間の対立、村人の80%が苦しむ負債などはありませんでした。今では普及しているギャンブルや過度の飲酒は、規制されていたため、窃盗はほとんどありませんでした。近所の人と通りすがりの人の間には、壁やフェンスはありませんでしたが、今では普通にあります。
クラウスナーが初めてこの村に着いた時、裕福な村人はブリキ屋根の木造住宅に住んでいたにもかかわらず、136家庭が竹とふきわらでできた家で生活していました。家族は農場で一緒に働き、お金ではなく物々交換に頼って生活し、夜には火の周りに集まって世間話や民話を話していました。「今はテレビの前に座り、子供達は祖母の話に興味を持ちません。スマートフォンで事足りるからです。」とクラウスナーは言います。

怠けた犬が路上でいびきをかき、鶏が走りまわり、優しいそよ風が竹林を揺らしますが、ウボンの首都から16km離れたノンコンでは今、6件のコンビニがあります。村の入り口付近にはハッピーコーヒーショップというオープンテラスのカフェが昨年オープンし、エスプレッソや「スカンジナビア・ラテ」が子供達に人気です。近くにはATMがあり、村人は自由にお金の出し入れができるようになりました。

タイのスイレンが10年ぶりに咲きました。

過去10年間で初めて、タイの湖で何千ものピンクのスイレンを見ることができます。
バンコクから3時間離れたところにある、カオサムローイヨート国立公園は、足を止める価値のある自然があり、地域では多くの観光客が来ることを望んでいます。
しかし、公園管理者は環境のもろさから、注意が必要だとしています。湖が綺麗になるまで訪れない人々もいるのではないかという懸念もあります。

花はタイの文化では神聖なもので、湖面に咲くスイレンの群れは、地域のカメラを持った人たちにはいいニュースとなりました。

しかし、「現在は、来るべきではありません。」と管理責任者のRungroj Aswakultarinさんは言います。

「国立公園では、スイレンを復活させる途中段階です。準備ができ次第、一般公開を始めるつもりです。」と彼は言いました。
Rungrojさんの言うことはよくわかります。
過去数十年間、公園の湖は荒れ、石灰岩カルストがそびえ立っていましたが、スイレンの開花は一度も見られませんでした。

誰も理由はわかっていません。
しかし職員たちは、度重なる干ばつ、肥料や近くのシーフード工場による公害が原因ではないかと考えています。
近年、管理者は公園を綺麗にしています。ついに今年、ピンクのスイレンを湖一面に見ることができたのです。
タイは、観光産業による収益と環境の保護のバランスを取るための努力をしています。
いくつかの国では観光業が爆発的に成長を遂げています。
過去数十年、外国人観光客は、2006年は1380万人だったのに対し、昨年は3250万人と2倍以上に増えました。多くは中国からの観光客です。
これらの観光客は、パンフレットに載っているような自然のビーチなどに訪れたいと思っていますが、実際に行ってがっかりする人も多いのが現状です。
タイの観光大臣は、観光産業に対し、富裕層の観光客を取り込むように指示しています。
今週、25の海洋公園を含む61の国立公園がモンスーンのために閉鎖し、現状回復しようとしています。しかし、環境学者は傷つきやすいエコシステムには、より長い閉鎖期間が必要で、訪問者の数を資源することが必要であるとしています。

タイがシンガポールと北朝鮮のハイブリッドになりつつあると指摘

アピチャートポン・ウィーラセータクンは香港を羨んでいます。
タイが2年前に軍事政権となって以来、現行の政治的混乱は国を後退させ、国の男たちの自由を脅かすのではないかと彼は言います。
ウィーラセータクンは、母国のことを「シンガポールと北朝鮮のハイブリッドになってきています。」と言います。

アピチャートポン・ウィーラセータクン – Wikipedia
美術家。チェンマイを拠点に映画やビデオ映像、写真を制作する。愛称は、ジョー。

9月17日、「狂気の静けさ(The Serenity of Madness)」と題した自身初の単独移動展覧会のオープニングのため、香港にいました。11月27日まで展覧会はNPOアートスペース「パラサイト」で開かれ、ビデオ作品、写真、彫刻などタイの最近の政治システムを反映した作品が展示されます。
中でも「ブンミおじさんの森」は、多くの映画で賞を受賞しています。2010年のカンヌ国際映画祭でタイ人で初めてパルムドールを受賞しました。

ブンミおじさんの森 – Wikipedia
あらすじ – タイ東北部。腎臓の病により死を前にしたブンミおじさん。後先長くないことを悟り、ある時死んだブンミの妻の妹・ジェンとトンを自らの農園に呼ぶ。三人で食卓を囲んでいると、突然女性の幽霊が出現する。それこそが19年前に亡くなったブンミの妻・フエイだった。しばらくすると、今度は長年行方が分からなくなっていたブンミの息子・ブンソンが姿を変えて現れる。愛する者たちを取り戻したブンミは、4人で森の中に入っていく。

展示は、香港の立法会議の劇的な選挙の2週間後から一般公開されました。人々は完全な民主主義を楽しんでおらず、さらなる改革を求めて投票しています。

タイは国がどれだけ後退しているのかを直視できません。常に文化の発展のために政府の援助を夢見ていましたが、今では政府は変わり、計画はほごになりました。代わりに文化発展のための費用は軍事費として使われているのです。また、検閲もあります。

私は、香港で文化がコミュニティーの一部になること、香港の人々が自由を楽しんでいることを羨ましく思います。

タイにおける検閲の促進は、無言の批評家たちを標的としていると、ウィーラセータクンは考えています。そしてそれは、芸術を作り出すことを難しくするだけではなく、展覧会を主催することも難しくしています。芸術家は病気の兵士を取り上げた2015年の映画「光りの墓」の公開をタイ国内ではやめました。これは政府の検閲を避けるためです。
事実、多くのタイ人は軍事政権下では状況は悪化すると諦めていると、ウィーラセータクンは考えています。
根深い混乱の文化では多くの世代が業の法則を信じ、軍隊を認めるという事態に発展しています。
軍隊の司令官たちは力を強め、政治のプロセスは議会ではなく力によって解決されています。人々はこれに慣れてきてしまい、今では軍隊を受け入れてしまっています。人々は面倒を見てくれる「親」を必要としていて、その親は戦車や銃から社会を守ってくれるのです。
ウィーラセータクンは、タイの人々は、まだ政治への関心が低いと感じています。しかし、何人かのアーティストは、政府から是正勧告をされるかもしれないにもかかわらず、現状に対する怒りを芸術で表現していくことを明らかにしています。この是正勧告には、芸術作品の阻止や政権への批判をやめさせる狙いがあります。

ウィーラセータクンの作品は自身の個人的な思い出やタイの文化を反映していると言いますが、必然的に政治的要素も潜り込ませているようです。彼の2009年のマルチ・ビデオ・インストール作品「プリミティブ」は、現在ロンドンのテート・モダンで公開されています。この作品はタイ北東部にある村、ナブアの夢のような記憶を再現しています。これは1960年代のタイの軍隊と共産主義者との衝突を思い起こさせ、これから先タイの政治がどうなっていくのかという疑問を投げかけています。

最後に「創造的な人々は疑問をあらわにしなければならないのです。」と彼は言いました。