月別: 2017年7月

文化と伝統、パタヤのソンクーラン

文化、伝統、宗教が融合したソンクーランがパタヤ周辺でおわりました。

水の大切さについて、保守的なリーダーたちが、ソンクラーンの価値を説いています。

Anan Charoenchasri市長とTongchai Wattraimitwitthayaram Worawihanは、4月12日から20日にかけて「ウェット&クールタイウェイ」を開催しました。また、タイの新年のお祭りを中央道路とビーチの交差点で4月13日に開催しました。

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教育、宗教、文化の保護と教育のためのスポーツの責任者であるNopsitcha Na Nakhonは今年のパタヤは伝統とソンクーランの文化遺産の保護を目的として行われたと話しました。観光客にタイの花の服を着てもらい、露出を抑え、白い粉を使わずに水だけで参加してもらったのです。

「白い粉」の正体は? – 阪急交通社
ソンクラーンでは、水をかけられる他に、なぜか白い粉を水で溶いたものを「サワディーピーマイカ―(ハッピーニューイヤー)」と声をかけられながら顔などに塗られます。この白い粉は、昔日焼け止めに使われていた「ディンソーポン」というハーバルプロダクツ。

北と南に2ブロック進んだ通りでは、誰もこのメッセージを受け取っておらず、例年通りタイ人も観光客も白い粉まみれになり、冷たい水と高圧水鉄砲で楽しんでいました。
しかし、市のリーダーたちは、この騒々しくなってしまった祭りを、昔ながらの方法で執り行うために最大限の努力をしています。ブッダの像に神聖な水をかけて、サンクチュアリー・オブ・トゥルースの遺産を並べ、布製でパタヤのシンボルが描かれていて僧侶によって清められたパーヤン(お守り)を配りました。
何百人ものタイ人がパーヤン(お守り)をもらうために列を作り、例年のソンクーランよりもひどい渋滞となりました。

Anan氏の文化的改革運動は、ドラマーやダンスを見ることもできました。観光客は一緒に踊り、タイ人はまたパーヤン(お守り)をもらうために列を作りました。市のリーダーたちはこの文化的なイベントを4月20日まで毎日、ウォーキングストリートで行いました。
タイの元日の活動は、パタヤ中で早い時間から始まり、仏教徒は各地域にある9つの主要な寺院に集まり、成功とこの先の繁栄を祈願しました。
信者は早朝のフードサービスにも参加し、ブッダ像を水で濡らしました。また僧侶にお布施を渡し、鳥と魚を解放しました。
家族全員が参加するソンクラーンは皆にとって何かを一緒に行う素晴らしい時間であり、この先1年家族に幸運をもたらしてくれると信じています。
チャイモンコン寺院で、Abbot Panyarattanapornは成功祈願の主宰を務め、神聖な水の儀式に参加する30人の僧侶を率いました。

多くの仏教徒とその家族は寺院に滞在し、僧侶に朝食を恵みました。そして人々は先祖の名前を書き、亡くなった親族の鎮魂の儀式が行われました。
サッタヒープ郡では航空沿岸防衛隊のEakaraj Phomlumpak海軍少佐とその妻のSomjitさんが海兵隊に対し、10人の僧侶にフードサービスを行いました。
彼らは神聖な水をブッダの像と高齢者の手にかけ、84,000の淡水魚をACDC貯水池に放しました。

Pakarathorn Tienchai議員はチョンブリ市役所でのソンクーランの行事を企画しました。
彼は、「お祭りはいつも地方の経済、社会、スポーツ、エンターテイメント部門において良い影響があり、地方の伝統や文化を広めるいい機会になる」と言いました。

4月11日から19日にかけて行われるお祭りは、1932年に始まり、観光客を呼び込むことで地方の伝統の維持継承をしているとPakarathornさんは言いました。イベントの収入は慈善基金に寄付されます。
今年のイベントは骨董の展示、タイの芸術と文化の展示、パレード、ミス・コンテスト、地元の人たちの手作りの雑貨の販売、献血コーナー、ゲームなどがありました。
4月13日のパレードには12のいかだと車でブッダを運び、人々は神聖な水を注ぐことができました。それぞれの地区の高齢者が2人パレードに参加し、観客たちは彼らの手に水を注ぎ、新年の恩恵を祈りました。
いかだは評価の対象となり、シーラーチャー郡が1位となりました。HRHマハ・チャクリ・シンリトーン王女のトロフィーと現金50,000バーツを受け取りました。
2位はパナットニコム郡で、トロフィーと30,000バーツを受け取り、3位はバーンブン郡で20,000バーツを受け取りました。

農村部の変化

農村部の高齢者は、若い世代が農村部を離れていくのではないかと危惧しています。
「私たちが死ねば、若い世代が土地を売り、どこかへ移動して行くでしょう。私たちは今自分たちがやっていることに誇りを持っていますし、幸せですが、私たちの後は誰がやっていくのでしょうか?」と、元小学校教師のKhamphan Waenkhwaenは言いました。
「どこへ行っても、都市化とテクノロジーがあとを追ってきます。以前は自然と共存し、戦わなければなりませんでした。今、人々はそこまで強くありません。」と別の村のリーダーは語ります。

最初の変化は1970年代に始まり、労働力を削減するための道具を使うため電気が導入され、物々交換に代わってお金が使われるようになりました。結果、相互依存を弱める消費者運動となり、個人での活動を望む人が多くなりました。高齢者の妥協と和解により論争は一度はおさまりましたが、土地、水道、相続についての対立は続いています。
宗教や精神も影響しています。村人は未だにバラモンに意見を伺い、神のお告げを伝えるシャーマンと3人の占い師が、何かを決める際の手引きをしてきたました。しかし現在は干ばつや疫病などのカタストロフィーは日頃の行いによるものであると信じている人はもはやいません。反社会的行動を制限する意味はなくなったとクラウスナーは言います。

仏教の僧侶は少なく、地域で最も高学歴とされていた頃よりも影響力は少なくなってきています。クラウスナーがかつて訪れた修道院には、20人の僧侶と6人の修道士がいました。
今では、たった3人の僧侶しかおらず、修道士は1人もいません。多くの若者が、雨季の3ヶ月間だけ、通過儀礼として修道士の訓練をします。(現在は、1週間が標準です。)
ルアン・プ・ウォンは農村部に生まれ、20歳の時から僧侶として仕えています。農業アドバイザー、教師、裁判官、人工水路、道路、電気のプロモーター、政府と村人の仲裁人などの多くの役割をになってきました。しかし、今では官庁職員や開発の専門家の着任により、彼の役割は礼拝式や倫理を説くことに限られてしまいました。
「私たちは落とし穴に落ちてしまったのです。」と彼は嘆き、村人の何人かは神聖な日でもギャンブルをしたり、酒を飲んだりという、過去には考えられない事態になっていると説明しました。「もし私たちが禁酒を説けば、彼らは寺院に来なくなるでしょう。」と彼は言いました。

農場に隣接した森で食べる昼食は、「ほっこりとして良かった」と村の高齢者グループと市の職員は話しました。しかし、政治家は「それはゴミのようだ」と言いすてました。
農村部が政治家に対する嫌悪は、2014年5月以来、高まっています。その一撃は、タイの近頃の政治的動乱のサイクルを終わらせましたが、電気の復旧を求める声に煽られてきました。

農村部の高齢者は意外にも焦っていません。
「バンコクの政府が来ましたが、私たちが求めていることは何も起きませんでした。いくつかの国の政策はいいですが、時に地方の人々にとっては不利なものもあります。」と、学校長のThatsanaiは言いました。例えば権威者たちが地下の水道システムを開発したいと思っていますが、それは優先事項ではありません。かんがい施設がまだ完成していないのですから、と彼は言います。学校のカリキュラムは、地方の需要を知らないバンコクの官庁職員によって考案されているといいます。
農村部と首都圏との経済格差はまだ大きいです。最新のデータによると、2013年のバンコクにおける1人あたりの国内総生産額は15,200ドルですが、北東部では2,400ドルだといわれています。

戦争を引きずっているタイの日本に対する感情

今年の初めに、日本に対する世論のジェネレーションギャップを埋めるため、2つのイベントがタイで開催されました。
タイ国日本人会は3月中旬に、タイ西部のカーンチャナブリーで慰霊祭を執り行いました。それは、「泰緬鉄道を作る上で亡くなった方の鎮魂と、世界の平和」のために行われました。
50人ほどが参加し、式典は、第二次世界大戦中に過酷な環境下で強制的に働き、栄養失調やコレラやマラリアなどの病気で亡くなっていった人々のために1944年に日本軍によって建てられた記念碑の前で行われました。

戦後記念碑は放置されていましたが、バンコクを本拠地にしている在タイ日本人会が土地を買い、1963年から年に1回、戦犯やアジア人労働者の慰霊祭を行っています。
この記念碑を知っている人は少ないですが、「私たちにはこれを保存する責任があります。」と、会長の大橋寅次郎さん(76)は言います。大橋さんは1965年に日本の自動車製造業者の代表としてタイに渡りました。

タイは西洋の植民地支配を避け、第二次世界大戦中は、戦争末期に連合国に味方するまでは日本と同盟を結んでいました。
日本が負けた時、「多くのタイ人が喜びました。」と、84歳の写真家 瀬戸正夫さんは言いました。瀬戸さんは日本人の父とタイ人の母のもとに生まれ、バンコクで育ちました。
戦時中、日本人兵士はケチで傲慢だったため、「多くのタイ人は占領下にいるように感じていました。」
反日感情は、1942年に仏教の僧侶が連合国軍の捕虜にタバコを渡し、怒った日本人兵士がその僧侶の顔を殴ったことから高まりました。

記念碑の横の戦争博物館を運営しているArun Chansiri(78)は「日本人が嫌いです。」と言いました。

70歳のPhichien Koosmithは、味の素のタイ支部のアドバイザーです。彼が入社したのは1969年で、当初はアメリカ留学までの期間だけ働くつもりでした。日本の調味料メーカーに雇われることについて、彼の先生は「もっといい仕事を探しなさい。」と言ったそうです。

1974年、当時の首相である田中角栄(1918-1993)はタイを訪れ、強烈な反日デモと日本製品の不買運動を目にしました。人々は、過去の軍事的侵略ではなく、「経済的侵略」を非難していました。

チュラロンコン大学のチャイワット・カムチュー教授(64)は、福田赳夫首相(1905-1995)によって発行された1977年の福田ドクトリンが日本とタイの関係の分岐点になったと言います。ドクトリンでタイと日本は同等の関係となり、東南アジア諸国との理解を深めていきました。

日本のODAがタイのインフラ整備に貢献したことから、シハサック・プアンゲッゲオ駐日タイ大使は、タイの発展に向けた日本への信用が高まったとしています。

日本企業にとって、タイは重要な製造業と物流の拠点になっています。バンコク日本人商工会議所は1985年の会員数が394であったのに対し、2014年には1,546にまで増えました。
バンコク日本人学校は、海外の日本人学校としては最大で3000人の生徒が在籍しています。在タイ日本人は1985年に7,852人であったのに対し、現在は60,000人ほどになっています。
日本の文化の一部である漫画とアニメは1970年代に浸透し始め、タイの30代から50代は漫画とアニメとともに育ってきました。

「タイガーマスクや他の漫画を通して、日本のことを知りました。」とSihasakさん(57)は言います。
タムくんとして知られている漫画家のウィスット・ポンニミットさん(38)は「食習慣などの日本人の精神は、ドラえもんなどの漫画を通して、タイ人に受け入れられ、日本人との共通点を見つけることができます。」と話します。
日本人とタイ人の結びつきは2011年の大災害後も強くなっています。2011年、日本では地震と津波、タイでは大洪水がありました。
観光・スポーツ省のコプカーン・ワタナワランクーン大臣は洪水後も日本企業がタイに残り続けていることに感謝しています。
東日本大震災の被害者を支援するための曲を作った音楽プロデューサー、ボイド・コシヤボンさん(47)は「タイ人のうち戦後に育った世代は、日本に対して悪いイメージが一切ないです。」と話しました。

在バンコク日本人は冗談で、首都のことを「東京都バンコク区」と呼んでいます。またスクムウィット通りには約2,000軒の日本レストランがあります。
毎日のように日本人に対してタイの観光スポットや食事、文化を紹介するイベントが開催されています。
2013年から、日本政府はタイ人の短期の旅行者に対して、ビザなし訪問を許可しました。これにより、2014年には660,000人のタイ人が日本を訪れ、その数は直近3年間の訪問者数の5倍を記録しました。

2006年以降、日本を紹介するテレビ番組のホスト役をつとめているカンヤラット・”ティック”・ジララッチャキットさん(38)は、「中国や韓国は一度行けば満足ですが、多くのタイ人は人々が礼儀正しく温かい日本を何度も訪れています。」と言いました。
一部の専門家はタイ人は賢く、自己中心的だと考えています。写真家の瀬戸さんは「タイ人は日本の経済利益を賞賛しています。」と言います。
大橋会長も同調しましたが、「日本人の正直さは感謝され、兄弟姉妹として共存していくことを期待しています。タイで生活できることへの感謝を忘れてはいけないのです。」と語りました。

過去50年のタイの社会的変化を反映している村

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冒険好きな若い人類学者ウィリアム・クラウスナーが1955年に1年間ノンコン村に滞在したとき、住人は時計、ランプ、冷蔵庫を持っておらず、たった1台のラジオがあるだけでした。多くの子供たちが4年間の教育を受け、大人はコメ農家として働き、事実上無学であるため、世界へ出て行く人は少なかったです。このタイ北東部にある村は結束、内向的な地方のコミュニティの象徴となっていました。

60年ほど経った今日、アメリカ人の研究者が年単位の滞在を開始し、各家庭にはピックアップトラックないしはバイクがあり、携帯電話はいたるところにあります。(携帯電話は「祖母世代だけが持っていない」と村人がいうほどに普及しています。)
子供達は3つのビデオパーラーで遊んでいます。さらに村にはコンビニがあり、ATMやピザの宅配サービスもあります。大半の地域のは若い労働世代は、何人かは大卒で、農家にはならずバンコクや他の都市で働いています。

訪問者との会話の中で、村人は国の政治的な発展にはリアルタイムでメディアを通して知ることができると話します。
「過去の影はまだありますが、街には新しい娯楽があります。村はネガティブな面もポジティブな面も伴いながら準都市コミュニティへと変化しています。」とクラウスナーは言いました。彼は村の女性と結婚し、ライターとタイ文化のエキスパートとして顕著なキャリアを形成しました。また、NPOの役員も務めています。

ノンコンの劇的な変化は「貯水池村」としてイーサンや北東などタイにとって社会的かつ政治的な発展を反映しています。タイの貧困層も残っている中で、後退しているという人もいます。変化はバンコクとの差をより深くしていっているようにも見えます。同時に、このような変化は甘やかされた首都に対する反感も爆発させ、エリートの流動性、経済の向上心、政治への意識が農民の間で高まっています。

複雑な都市と地方間の関係では、多くの人がホワイトカラーとして働き、銀行員や看護師などの専門的な分野で活躍しているにもかかわらず、多くのバンコクの人々が、北東部の村出身の人たちのことを無学だと思っていて、内向的で、「水牛」とけなしているのです。
前首相のタクシン・チナワットを支持する通称「赤シャツ」運動は、広く北東部で始まり、バンコクの政界の黒幕に反対する怒りや不満を反映させました。さらに2010年には抗議者たちは首都の一部を占拠し、軍によって鎮圧されました。
北東部の多くの人々は、クラウスナーが知っているような穏やかな人々ではなく、権力に従い、自分たちの権利を犠牲にするつもりはなく、家族、親しい人々、コミュニティーに対する野心があります。

「彼らがコメ農家だった頃、人々はお互いに助け合っていました。お互いがお互いを頼りにしていましたが、機械を使うようになってからはそのような光景は見られなくなりました。現在、生きるために共に働くという感覚はもうないのです。」と小学校校長のThatsanai Chainaenは言いました。昔は、料理を作り、他人と分け合ったといいます。「今はセブンイレブンに行けば買えるのです。」と彼は言いました。
草木が生い茂る村の寺院やワットで寝転びながら、長年にわたってコミュニティーの発展に寄与してきた80歳のルアン・プ・ウォン大修道院長は、「貧乏でありながらも、私たちが大切にしてきたのは、共通の精神です。進歩は遅かったですが、強い絆で結ばれていました。」
別の村のリーダーは、日経アジアンのインタビューの中で、懐かしさをあらわにしましたが、理想的な過去、明るい現在や未来にはすがりついていないようです。
彼らは過去の生活を思い出していました。厳しい貧困、骨の折れる仕事、不十分な教育、家族計画の欠如、栄養不足、短い寿命と死に至る病などです。人が死ぬところというイメージから、人々は病院に行くのを怖がっていました。
しかし、若者の都市部への流出や訴訟、世代間の対立、村人の80%が苦しむ負債などはありませんでした。今では普及しているギャンブルや過度の飲酒は、規制されていたため、窃盗はほとんどありませんでした。近所の人と通りすがりの人の間には、壁やフェンスはありませんでしたが、今では普通にあります。
クラウスナーが初めてこの村に着いた時、裕福な村人はブリキ屋根の木造住宅に住んでいたにもかかわらず、136家庭が竹とふきわらでできた家で生活していました。家族は農場で一緒に働き、お金ではなく物々交換に頼って生活し、夜には火の周りに集まって世間話や民話を話していました。「今はテレビの前に座り、子供達は祖母の話に興味を持ちません。スマートフォンで事足りるからです。」とクラウスナーは言います。

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怠けた犬が路上でいびきをかき、鶏が走りまわり、優しいそよ風が竹林を揺らしますが、ウボンの首都から16km離れたノンコンでは今、6件のコンビニがあります。村の入り口付近にはハッピーコーヒーショップというオープンテラスのカフェが昨年オープンし、エスプレッソや「スカンジナビア・ラテ」が子供達に人気です。近くにはATMがあり、村人は自由にお金の出し入れができるようになりました。

タイのスイレンが10年ぶりに咲きました。

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過去10年間で初めて、タイの湖で何千ものピンクのスイレンを見ることができます。
バンコクから3時間離れたところにある、カオサムローイヨート国立公園は、足を止める価値のある自然があり、地域では多くの観光客が来ることを望んでいます。
しかし、公園管理者は環境のもろさから、注意が必要だとしています。湖が綺麗になるまで訪れない人々もいるのではないかという懸念もあります。

花はタイの文化では神聖なもので、湖面に咲くスイレンの群れは、地域のカメラを持った人たちにはいいニュースとなりました。

しかし、「現在は、来るべきではありません。」と管理責任者のRungroj Aswakultarinさんは言います。

「国立公園では、スイレンを復活させる途中段階です。準備ができ次第、一般公開を始めるつもりです。」と彼は言いました。
Rungrojさんの言うことはよくわかります。
過去数十年間、公園の湖は荒れ、石灰岩カルストがそびえ立っていましたが、スイレンの開花は一度も見られませんでした。

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誰も理由はわかっていません。
しかし職員たちは、度重なる干ばつ、肥料や近くのシーフード工場による公害が原因ではないかと考えています。
近年、管理者は公園を綺麗にしています。ついに今年、ピンクのスイレンを湖一面に見ることができたのです。
タイは、観光産業による収益と環境の保護のバランスを取るための努力をしています。
いくつかの国では観光業が爆発的に成長を遂げています。
過去数十年、外国人観光客は、2006年は1380万人だったのに対し、昨年は3250万人と2倍以上に増えました。多くは中国からの観光客です。
これらの観光客は、パンフレットに載っているような自然のビーチなどに訪れたいと思っていますが、実際に行ってがっかりする人も多いのが現状です。
タイの観光大臣は、観光産業に対し、富裕層の観光客を取り込むように指示しています。
今週、25の海洋公園を含む61の国立公園がモンスーンのために閉鎖し、現状回復しようとしています。しかし、環境学者は傷つきやすいエコシステムには、より長い閉鎖期間が必要で、訪問者の数を資源することが必要であるとしています。

タイがシンガポールと北朝鮮のハイブリッドになりつつあると指摘

アピチャートポン・ウィーラセータクンは香港を羨んでいます。
タイが2年前に軍事政権となって以来、現行の政治的混乱は国を後退させ、国の男たちの自由を脅かすのではないかと彼は言います。
ウィーラセータクンは、母国のことを「シンガポールと北朝鮮のハイブリッドになってきています。」と言います。

アピチャートポン・ウィーラセータクン – Wikipedia
美術家。チェンマイを拠点に映画やビデオ映像、写真を制作する。愛称は、ジョー。

9月17日、「狂気の静けさ(The Serenity of Madness)」と題した自身初の単独移動展覧会のオープニングのため、香港にいました。11月27日まで展覧会はNPOアートスペース「パラサイト」で開かれ、ビデオ作品、写真、彫刻などタイの最近の政治システムを反映した作品が展示されます。
中でも「ブンミおじさんの森」は、多くの映画で賞を受賞しています。2010年のカンヌ国際映画祭でタイ人で初めてパルムドールを受賞しました。

ブンミおじさんの森 – Wikipedia
あらすじ – タイ東北部。腎臓の病により死を前にしたブンミおじさん。後先長くないことを悟り、ある時死んだブンミの妻の妹・ジェンとトンを自らの農園に呼ぶ。三人で食卓を囲んでいると、突然女性の幽霊が出現する。それこそが19年前に亡くなったブンミの妻・フエイだった。しばらくすると、今度は長年行方が分からなくなっていたブンミの息子・ブンソンが姿を変えて現れる。愛する者たちを取り戻したブンミは、4人で森の中に入っていく。

展示は、香港の立法会議の劇的な選挙の2週間後から一般公開されました。人々は完全な民主主義を楽しんでおらず、さらなる改革を求めて投票しています。

タイは国がどれだけ後退しているのかを直視できません。常に文化の発展のために政府の援助を夢見ていましたが、今では政府は変わり、計画はほごになりました。代わりに文化発展のための費用は軍事費として使われているのです。また、検閲もあります。

私は、香港で文化がコミュニティーの一部になること、香港の人々が自由を楽しんでいることを羨ましく思います。

タイにおける検閲の促進は、無言の批評家たちを標的としていると、ウィーラセータクンは考えています。そしてそれは、芸術を作り出すことを難しくするだけではなく、展覧会を主催することも難しくしています。芸術家は病気の兵士を取り上げた2015年の映画「光りの墓」の公開をタイ国内ではやめました。これは政府の検閲を避けるためです。
事実、多くのタイ人は軍事政権下では状況は悪化すると諦めていると、ウィーラセータクンは考えています。
根深い混乱の文化では多くの世代が業の法則を信じ、軍隊を認めるという事態に発展しています。
軍隊の司令官たちは力を強め、政治のプロセスは議会ではなく力によって解決されています。人々はこれに慣れてきてしまい、今では軍隊を受け入れてしまっています。人々は面倒を見てくれる「親」を必要としていて、その親は戦車や銃から社会を守ってくれるのです。
ウィーラセータクンは、タイの人々は、まだ政治への関心が低いと感じています。しかし、何人かのアーティストは、政府から是正勧告をされるかもしれないにもかかわらず、現状に対する怒りを芸術で表現していくことを明らかにしています。この是正勧告には、芸術作品の阻止や政権への批判をやめさせる狙いがあります。

ウィーラセータクンの作品は自身の個人的な思い出やタイの文化を反映していると言いますが、必然的に政治的要素も潜り込ませているようです。彼の2009年のマルチ・ビデオ・インストール作品「プリミティブ」は、現在ロンドンのテート・モダンで公開されています。この作品はタイ北東部にある村、ナブアの夢のような記憶を再現しています。これは1960年代のタイの軍隊と共産主義者との衝突を思い起こさせ、これから先タイの政治がどうなっていくのかという疑問を投げかけています。

最後に「創造的な人々は疑問をあらわにしなければならないのです。」と彼は言いました。

あなたを驚かせるかもしれない面白いタイの文化

どこかに旅行した時に、何があなたを魅了しますか?
私にとっては、ローカルの雰囲気を経験することです。バンコクに行ったことがない人はタイ文化のちょっとした衝撃的なコースを体験してみてください。
重要なことにだけ目を向けます。例えば、揚げ物やニックネームです。もしかしたら、この記事を読むと、あなたの頭の中に大きなクエスチョンマークが浮かんで来るかもしれません。広い心を持って読んでください。

アメリカンフライドライス
美味しそうな赤いフライドライスは、アメリカのレストランのメニューでは見ることがありませんが、アメリカンフライドライスと呼ばれています。実際、このメニューはタイの地元の人たちに大人気なのです。この料理は、ケチャップで炒め、ソーセージ、手羽元揚げ、目玉焼き、たまにエビが入っています。きっかけは、ドンムアン空港にあるレストランが、アメリカ人のための朝食を用意しましたが、フライトが欠航になってしまいました。そこで、レストランのマネージャーは、全ての食材を使った新しい料理を考案したのです。1人のアメリカ人兵士が、「これはなんですか?」と尋ね、「アメリカンフライドライスです。」とマネージャーが答えました。これが、この料理の生い立ちです。もし食べたことがないのなら、ぜひ食べてみてください。

ビニール袋に入った飲み物
タイの屋台で売っている食べ物は、とても安く美味しいですが、時々、一部の人にとっては不思議な入れ物に入って提供されることがあります。バンコクの通りを歩いていると、カラフルなソーダ、タイのミルクティーやコーヒまでもがビニール袋に入れられて売っている光景を目にするでしょう。そう、ビニール袋です。タイでは、ごく普通の光景で、食料品を入れるようなビニール袋に飲み物を入れて売っているのです。安心してください、味は一般的な飲み物と同じです。

新たなフルーツディップ
タイに行ったことがある人は、至る所で果物カートを見たと思います。実際にフルーツを食べた人はいますか?果物自体は普通ですが、ディップの種類を見たことがありますか?たくさんの選択肢があります。例えば、チリと塩、桃のパウダーや甘いものとスパイシーなものを合わせたナムプラー・ワンや、エビのペーストまであるんです。聞きなれないものが多いですが、実際にフルーツをディップして食べてみると、意外と相性がいいことに気づくでしょう。しょっぱく、辛味があり、甘いのです。次回、果物カートを見つけた時には、ただパイナップルを買うのではなく、ぜひ冒険してみてください。もちろん、これもビニール袋で提供されます。

21世紀のタイのニックネーム
多くの国ではニックネームが存在します。オーストラリア人は名前を省略して必要のないZをつけることを好み、多くの中国人は幼少期にニックネームをつけます。しかしタイでは、生まれた時にニックネームが付けられます。そしてそのニックネームはなんでもいいのです。色、動物、もの、ブランド名やなんの意味もないものもあります。例えば、宝石という意味のポーリーは、女性に最も使われているニックネームで、バンクは男性に多いです。そして、本名は創造的なものになっています。最近のトレンドでは、2つの音節を組み合わせたものが多いです。
例えば、お米を供給するという意味のポン・カオや、岩山という意味のプーパのような名前です。

タイではこれ以外にも面白い文化がたくさんあります。

タイの留学生がタイの文化を紹介しました。

タイの教育省とウィスコンシン州の教育員会の国際交流パートナーシップの一環で、タイの教師と生徒5人が、アメリカの文化を学び、タイの文化を広めるためにパトリック・マーシュ中学校(PMMS)とサンプレーリーを訪れています。

2年目となる今年は、PMMSのゴー・グローバル・クラブのアドバイザーであるサンドラ・コワルチク氏が訪問団のホームステイ先を手配しました。訪問は4月22日から5月10日までです。

タイからの学生たちは、ホームステイ先の家族と日常生活を共にしているとコワルチク氏は言いました。また、ホームステイ先の子供と一緒に学校にも通っています。

タイの学生とホームステイ先の子供たちは、7年生のコーナー・ローラー、リンラーダ・シーブーンルアンと6年生のリリアン・クローリー、7年生のブルック・バンドリ、5年生のジャスパー・オールマン、5年生のマギー・レシュと7年生のロレッタ・レシュ、ラッタナー先生と6年生の教師リンゼイ・サロモーネです。

タイからの訪問団は、最北端や最南端、最東端などの地方から来ています。ウィスコンシンのことやこの地域の人、教育システムなどを学ぶ中で、訪問団もPMMS生徒たちやサンプレーリーで、タイの地域のことや国民性、文化などについてクラス内や放課後のゴー・グローバル・クラブにおいてプレゼンテーションをする予定だとコワルチク氏は言いました。

プレゼンテーションでは、伝統的な衣装を着て地域の踊りを披露し、人形劇のプレゼンテーションも行う予定です。

5月1日にはクラス内でのプレゼンテーションが行われました。生徒たちは鮮やかな色のタイ独自の伝統衣装を身につけました。

訪問団はPMMSの生徒たちのために伝統的なタイの踊りを披露し、振り付けを教えて一緒に踊る場面も見られました。また、タイ語での挨拶も教えました。

タイ文化でのエチケットについて

タイ文化には無数の習慣があり、受け入れられるものとそうでないものがあります。タイに行く前に、7つのルールを学習しておきましょう。

1. 王族を悪く言ってはいけません。

タイの人々は王族を尊敬しています。その証拠に、お店や家など至る所で王族の写真を目にすることがあるでしょう。タイの人々と同じように、王族に敬意を示すのは、最も重要なエチケットの1つです。不敬罪に対する法律もあり、王族を侮辱するのは違法なのです。

この法律はとても慎重に扱われ、破った人は外国人でも懲役刑が科されることがあります。個人的にも、プライベートなメールやSNSでもタイの王族について何か言及するのはやめておきましょう。

2. 寺院では肌の露出をしてはいけません。

タイの寺院はとても神聖な場所で、訪れる際にはそのことを肝に命じておかなければなりません。旅の目的がビーチだったとしても、寺院に入る際は肌を覆わなければなりません。

どういうことかというと、肩から胸を覆い、できれば膝も隠したほうがいいでしょう。大きめのスカーフを常にカバンに入れておきましょう。服装のせいで寺院に入れないなんて、悲しすぎますから。

3. 靴を脱ぎましょう。

寺院や家に入るとき、また一部のお店やオフィスでも靴を脱ぎましょう。行くとわかりますが、ドアの前に靴の山を見ることになるでしょう。タイでは、足は体の中で最も汚い部分だと考えられており、靴はそれ以上に汚いものとなっています。足を机の上に投げ出したり、誰かに足で触ったりすることもタブーとされています。

4. ブッダ像を過小評価しないでください。

タイは仏教の国で、ブッダの像や絵がある場所では最上級の敬意を示す必要があります。寺院にあるブッダ像には決して登らないでください。もしかすると法律で罰せられるかもしれません。

ブッダ関連の話をすると、特別な許可なくブッダの写真を撮り、海外に持ち出すことは違法となっています。ブッダの写真などは店でも売っているので、そこで手にいれたほうがいいでしょうが、間違われて質問されないように、常に気をつけたほうが良いでしょう。

5. 人の頭を触ってはいけません。

タイでは、頭は神聖な部位で体の中で最も綺麗なところとされています。なので、人の髪や頭を触ることは嫌がられます。もし偶然触ってしまったなら、すぐに謝りましょう。そうすれば、多くの人は許してくれるでしょう。

特に、タイでボランティア活動や子供に何かを教える場合は気をつけましょう。このタブーを忘れて、子供の髪に触ってしまうかもしれません。一部地域では、子供の頭を触る習慣があるようですが、タイ西部では今でも好ましくないとされています。

6. 僧侶を敬いましょう。

タイで出会う僧侶はとても信仰心の深い人々で、崇拝するべきだとされています。道を歩いている時に出会ったら、お辞儀をし、個人的な質問をしてはいけません。旅行者を警戒している場合もあるので、気をつけたほうがいいでしょう。何かを渡すときは直接ではなく、僧侶の前に置きましょう。そうすれば僧侶がそれを受け取ってくれます。女性は特に注意しましょう。触ったり、すれ違ったりすることもやめましょう。

7. 「ワイ」という挨拶に返事をしましょう。

タイの「ワイ」という挨拶は、頭を下げて手を合わせるものです。これは一般的な挨拶で、距離を近づけるためにするものです。もしあなたがこの挨拶をされたなら、同じ動作で返しましょう。そのときは笑顔でいてください。タイの人々は温かく、他人を受け入れてくれます。そして、同じように挨拶すれば、とても喜んでくれるでしょう。

専門家には増加する異文化間の関係構築をナビゲートする能力があるのか?

文化の違いというのは、ビジネスシーンや専門的な関係において、良くも悪くも影響することがあります。向こう見ずなアメリカ人は、日本独特のヒエラルキーにおいて日本人のパートナーを簡単に敵に回してしまうと思います。几帳面なドイツ人は、タイでの時間通りに始まらない会議について、余計なストレスを感じてしまうかもしれません。アジア人のリーダーがヨーロッパで活躍するのは、多くの指導や自主性の低さから、不満を感じてしまうかもしれません。ただ、文化の違いは時に良い方向に働くという研究結果もあります。

バンコクの専門家たちは文化の違いは困難を生じさせるわけではなく、異文化の関係を効果的にすることで今までにないほど重要になってくると考えています。バンコクはアセアンの急成長地域として位置付けられており、エクソンモービル、ファーウェイ、ユニリーバなどの多くの多国籍企業が事務所を置き、ビジネスにおいて文化の違いに対応するために専門家を雇っています。さらに、過去数年、タイはセントラルグループやチャルーンポーカパングループのような集団が海外でのM&Aを活発的に行なっています。タイ政府は、「投資しやすい環境」作りに努めると発表し、デロイト・トウシュは2017年にタイはM&Aをするのに魅力的なマーケットであるとし、かつてないほど異文化関係の専門家の需要が増えるだろうと予測されています。

幸運なことに、異文化の違いや効果については、グリート・ホフステッドやエリン・マイヤーによって過去40年以上にわたって研究が行われてきました。彼らの研究によって、国際的な専門家を助けるためのいくつかの重要な原則があることがわかっています。これらの原則をより磨くために、私たちは一般化された研究の成果を基礎として、いくつかの例を提示します。どの記述も、すべての人に当てはまるわけではなく、違いは完璧ではありませんが、相対的です。例えば、アメリカ人は関係構築よりも取引に重点を置きます。これは、彼らが関係構築に興味がないというわけではなく、自分たちの仕事を完了させることを優先させる文化であるからです。

ひょっとしたら、文献が示す最も重要なことは、文化の違いは言語や行動の違いよりも深く、社会全体の価値観と信条から成り立っているということです。例えば、日本人とタイ人の従業員は、アメリカ人やドイツ人と比べて、上司に対して敬意を表し、より権限を与える傾向にあると言われています。先述の内容に照らし合わせてみましょう。彼らのこの行動は、集団の意思決定がより強いという信条から来ていることを知っていましたか?このような環境下での忠誠や、権力に従うことは高く評価されていて、権威に対して反対することは、集団の成功を脅かすと信じられています。これで、ホフステッドが階層文化(例えば、日本人、タイ人、中国人)と呼ぶ環境において、リーダーに反対することが難しいということの説明ができます。直接上司に反論することは、彼らの権力に従うことは重要であるという信条に反するのです。

アメリカ、イギリス、ドイツ出身の読者は、このような問題に直面したことが何度もあると思います。階層文化の人々に対して、反対意見を声に出すことは、ビジネスを成功させるための手段であると伝えてみてもいいでしょう。しかし、著書「グローバルリーダーシップとは何か」の中で、専門家に対し、「文化的な自己認識を探し出す」ことを勧めており、このメソッドは他の文化の自己認識より必ずしもいいわけではないことを理解しているとしています。フォーチュングローバル500にランクインしているアメリカ、中国、日本、フランス、ドイツの5か国が全くこなる文化であるという事実がこれを証明しています。文化の理解というのは、とても重要です。信条の違いを理解しなかったり、同僚の異文化への理解を示さないと、お互いの行動について、常に誤解が生じてしまうからです。

世界的な文化の違いは、だいたい8つのカテゴリーに分類することができ、多くの国の文化の紹介は文書化されています。いくつかの研究によるモデルが使われており、グリート・ホフステッドのモデルは当初、1970年代に行われたIBMの研究、フォンス・トロンペナース・モデルと異文化理解モデル(ICAM)をベースに進められて来ました。どのモデルも多くの類似点があり、世界的なデータ収集によって、確証されています。

ICAMコントロールディメンションは、タイの文化はマレーシアやベトナム人と共感できる点が多くあるという興味深い文化的側面を明らかにしました。彼らは、自分たちの支配下にあるものよりも、外的因子の方が成功には必要だと信じています。したがって、リスク軽減のためにルールや手順に従うことは、とても価値のあることで、偶然によって成果が出たパフォーマンスを評価することはさほど重要ではないのです。これは、失敗を外的因子のせいにする従業員を簡単に信じないアメリカ人、イギリス人、日本人の物の見方とは大きく異なる精神性です。タイの文化は、ICAMの定義の時間やモチベーションにおいて、イライラするような結果を招くという面白い側面も持っています。

では、私たちは永遠に理解し合えないのでしょうか。自分たちの文化的な価値観を犠牲にして、労働環境下の文化に順応しなければならないのでしょうか。

答えはノーです。

ダイバーシティインクによって行われたリサーチによると、文化の違いをうまく扱うことができれば、文化が違う人たちで構成されているチームは、多様性のないチームと比べるとより優れているとされています。加えて、効率的な仕事の能力と多様な文化のチームを扱うことは習得可能なスキルです。改良策を探している専門家は文化の違いを学ぶことができ、共感できるような対話をし、価値観を共有することで新たな期待を持ったり、柔軟性を保ったり、win-winな関係づくりをすることができます。ネット上では様々なソースがあり、ワークショップ、解決策の指導を受けるなど、異文化間の関係構築について学ぶ機会は多くあります。